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Author:青色 カレンダー最近の記事月別アーカイブ
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Ads by Google新しい記事を書く事で広告が消せます。 自PC間ではシナジーを形成しない。
一つの卓で多くのPCを扱う場合、可能な限りそうしている。
何故なら、それを設定したところで別のPCと出会うことはまず無いからだ。 その設定を生かそうとするとGMは採用していないはずのPCを登場させねばならず、さらに下手をするとPLから「こいつはそんなこと言わない」とか「俺がやる」とか言われるのだ。 そんな無駄な苦労を掛けるのなら、別のPLのPCに向かってアクションを起こし関係を築いていく方がやりがいがあるし、なによりシナリオが先に進みやすくなる。 そう、一人芝居は物語を停滞させるのだ。 例外は「前のPCが死んで、そのポジションに別のPCが欲しい」時くらいか。双子の弟とか。 環境破壊と人類オワタ説。
時々「人類が死滅すれば地球は良くなる」的な自殺的環境保護論が見受けられる。
だが、はっきり言ってそんなもの、無駄に死にたがっているだけだろう。 何の為に環境を保全しなければいけないのか。 絶滅危惧種を生き残らせるためでも、神聖な地球を守るためでもない。 環境が激変すると、人類にとって都合が悪いからだ。 「人類が死滅したら」環境が改善されました、では意味が無い。 それは病気を治すために患者を殺すような行為で、要するに安楽死でしかない。 環境問題をどうにかする為に必要なのは、人類が死ぬことではなく、技術が進歩することだ。 地球の自然回復力だけに任せて待つには、我々の寿命は短すぎる。 時間は全てを解決するのかもしれないが、解決される前に当事者は死に絶えてしまう。 温暖化対策などが途上国に負担が大きいのは、使用できる技術が「安くて古い」ものであることにつきる。 要するに「環境問題」なんてリスクが眼中に無かった時代の技術を使っているのだ。 技術というものは未来に不安材料を残しながら進むものだ。 石油石炭に頼る以上は二酸化炭素が、原子力なら放射性物質が、といった具合に。 しかし、石油なしに文明の発達は無かったし、人類の拡大もなかったろう。 必要悪というか、誰だって先祖の尻拭いを多少なりとしなければいけない、という事なのかもしれない。 さて、環境対策済みの技術は高価だ。 環境問題は多大に経済問題を含んでいる。 たとえばその手の技術の特許使用料を先進国が吸い取らないだけで随分ハードルは低くなるだろう。 単に特許使用料を徴収しない、では技術が発展しないので先進国が途上国の分も払うような形になる。 排出量の買取では目標値以下になることは無いが、技術供与ならより確実なのではないだろうか。 ただ、エコな車に乗り換えるより、今の非エコな車が壊れて走れなくなるまで乗り潰した方がおそらく環境負荷は小さい。 エコカー減税は自動車会社保護と「エコカー当たり前」に移行するための前置き策でしかない。 個人的には人間の最大のエコ技術は「既に居る生き物を改良し飼いならす術」だと思っている。 もちろん馬では車ほど量産はできないが、最大限エコだ。 二酸化炭素についてならプロフェッショナルな植物達に任せればいい。 コンクリートやアスファルトの上に植物が生えることが可能な薄い土壌をパネルとして張るような技術は、実際開発されている。 砂漠化を食い止め、緑化を進めるような技術ももちろんある。 まあそれだって「砂漠という環境の人為的破壊」なんだけれど。 砂漠の生き物は様変わりするだろうねえ。 誰だって昨日までの景色を破壊して明日への道を作って進んでいくのだ。 何も変わらない、なんてことはありえないのだから。 職業的議論者の不健全性。
職業的政治家が果たして必要なのだろうか、といつも思っている。
彼らは民主主義の経典に従うならば、普通の人たちの代表のはずなのだ。 その時々その議論次第に抽出される「数多ある意見のうち一個の代表」であるはずの身分が、なぜ「代表であり続けようとする」必要があるのかが、まったく理解に苦しむ。 その地位、「政治家」とは理想気体ならぬ「理想意見」の入れ物に過ぎない。 本来的な意味では、どのような名前血縁出身の人物であろうと、掲げた一意見を代表すると人々に任じられ自身が理想に対して誠実に振舞う限りにおいては、誰であろうと就くことのできる役職であるはずである。 代表した意見の論議を全うすれば、彼なり彼女なりの仕事は終わったのではないのか? 次に代表すべき意見を捜し求めて、それで飯を喰って何に為るのだ?それはお前が「本当に肌身で感じた不条理」なのか?議論の種さえあれば何でも良いと内心思っているだけの特権享受者にそれを本当に「議論する」ことなど出来るのか? 勘違いしないで欲しいのだけれど、不条理を目にした者がそれを正そうと人々の後援を求め議論の場に乗り出そう志すこと、それ自体に違和感を持っているわけではない。 ただ、彼なり彼女なりが「その不条理」に関して十二分な議論を行い関連法整備が終わった後も議会に留まり、「経験を生かして」などとさらに「次の正すべき不条理はどこだ?」と政治を「職業」にしてしまう者たちに不気味さを感じるということだ。 その地位を子々孫々に受け継がそうとさえ考えたりもする。 それは「誰でもいつでもなれる代表者」の考え方ではない。継承され統治する王家の人間の思考だ。 王家は「決定の最終責任を取り革命される」ことでなんとかその存在の意義を示すが、民主主義に革命はない。最終責任は国民自身に帰結するのだから。 継承され、統治し、革命されない。責任追及のウロボロス、議論の永久機関…それが職業的「政治家」である。 いや、彼らの苦労は買おう。 もしかしたら彼ら「政治家」たちは数十年に渡って人に理解を求め政策を模索し、必死になって世間を変えようと奮闘しているのかもしれない。 代表したはずの意見が報われず、長く戦い続けている者もあるだろう。 それに見合った報酬が必要なのも理解しよう。 がしかし、初志を貫徹したがゆえに結果的に得られた報酬と、「報酬のために」だらだらと考えてもいない職業的義務的に議論を生産することには雲泥の差がある。 職業的義務的にただ漫然と生産される米なら無価値ではない。それは人を生かす。が、「議論」はそうはいかない。決定と行動無き議論はタダの言葉遊びだ。 結局、議論し続けることで喰っていけるのは職業的「政治家」だけなのだ。 議論を生業とするものは、議論を終結させることではなく引き伸ばすことが自分の利益だと遠からず気がつくのである。世間の暮らしぶりを変えようとしていたものはボードゲームの政局を遊ぶだけのプレイヤーになる。長考こそが尊ばれ、思考は堂々巡りするばかり。 なんでもない市井の一親父がある日ひょいっと会議場で、国のトップに向かって思いのたけを述べることができる立場。 それこそが理想の「政治家」である。 (声を上げさえすれば良い、という意味ではネット上と似通っていなくもない。ただ、ここでは安全のため仮面を被らなければならず、あまりに広大に過ぎる) ギリシアの広場のような開かれた議会をこそ望む。 架空の二人称。
誰であれ皆「自分を受け入れてくれる想像上の誰か」を目標に行動している。
それは家族かもしれないし、友達かもしれないし、恋人かもしれない。 誰かに認められたい、という動機はつねにある程度の力を持って行動を律する。 ただ、その「自分を受け入れてくれている誰か」という想像と現実の相手との間にある相違が落胆や驚きや苦しみを呼ぶことも確かだ。 力というものは、常に諸刃である。それが架空のものであれ。 いや、むしろ心に作用する分効果は大きいかもしれない。 人間にとって「人に好かれたい」と考えることが最大の弱点で、かつ最大の動機だ。 他人への影響を考えることで、初めて周りと協調したり反目したりできるのだから。 自分が何に期待しているか自覚することでそのリスクは低くなるものの、その分喜びを半減させることでもある。 心の中に誰を住まわせても構わないけれど、誰が居るのか位は知っておきたいな。 定期的に見る悪夢なのだが、
亀が増える、というものがある。
家には一匹亀を飼っており、彼(だか彼女だか知らんが)とはもうかれこれ20年近い付き合いになる。 また、名前はあるようなないような常態で基本的に「亀」としか呼ばれない。 奴が繁殖してしまっている、という夢を、しばしば見るのだ。 ベランダが亀でいっぱいであまつさえあふれ出して下に落ちるほど。 事実、一度水槽から逃げ出し、三階から落ちて行方知らずになった挙句、別棟の人が拾って保護していたことが明らかになる、という大騒動を一度やらかしている。 なお、ダメージらしいダメージはろくになかった。甲羅恐るべし。 |
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