プロフィール
Author:青色 カレンダー最近の記事月別アーカイブ
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政治と日常の接触事故。
13日オバマ来日に備え、東京の路線にくまなく警官が配備されています。
加えて自動販売機も一時停止。14日復旧予定らしい。どういうテロを想定しているんだろうか。 ひきこもりの僕がそれを目撃した理由はもちろん通院日だったから。 そして、主力のガバペン(薬)に「保険診療外通達」が… (父が)入ってる健康保険、仮にも政府系の機関の一部なのに。 頭がすげ変わって「無駄」の一部と判断されたのか? 馬鹿な。ガバペンに代えられる薬はまだ治験中なんですけど。 というか、そもそも「線維筋痛症」自体が公には認知されてなくて、役所と医療現場との連携でどうにか「アリってことで」と通してもらってたものだったりする。 「保険病名」という奴で、要するに嘘の病名での申告を上げているわけだが… こと、緩和ケアの領域では「別の病気に効く」として認可されている薬が別の病気にも効く、という状況が多いようだ。 (参照:http://air.ap.teacup.com/awatenai/294.html) 要するに、国の認可に柔軟性が足りない。参照記事の方が言うように柔軟にするにしても限界はあるだろうけれど。 対策は現在三つ。 1:保険加入者本人(要は父)から苦情を出す。 加入者本人に言ってもらわないと効果はないと医師から作戦を受けたので、その通り実行し てもらうように要請。 とりあえず声を上げないことは認知も進まないので、まずはこれを。 線維筋痛症の研究第一人者に曰く「舛添さんの時はまともだった」らしい。 「政府系でこれじゃあな…まったく患者さんが困るだけじゃないか」とも。 ここから薬の認可の不合理な堅さ(合理的な堅さは仕方ない。命に関わるから)、保険病名という嘘が医療事務員に必要とされる(申請される方もするほうも暗黙の了解となっている)謎の捩れ、その二つが解消される方向へ舵をとってくれるのなら労働厚生大臣を許す。 幸い、父は僕の医療費程度なら払えるからだ。 「というわけで保険組合に苦情を出して欲しいんだけど」 「払えば良いじゃん。払えるよそれくらい」 「そういう問題じゃない。こういう病気があるのだと保険の組織が認識することが重要なのだ。お役所仕事で書類に書いてないから不可があたりまえになればどこもかしこも『そんな病気認めない』でスルーする健康保険になる。『俺は払わないぞ』と言って欲しいんじゃない。『こういう病気があり、この薬は必要なものなのだ』と言ってくれ」 実際、金で解決できる問題は多いのだが、そうでない問題も根強い。 というわけで父を動かすのにぺらぺらと弁舌を働かせてきた。 今僕に出来ることは言葉を量産し、弾丸のように撃ちまくることだけだ。 しかし払えない人はどうしろというんだろうな。まったく。 死にはしないが死んだ方がマシだと思うほどの苦痛。しかも周りの理解は皆無。 診断できる医師は少なくドクターショッピングを繰り返し、診断された先の治療費は払えない。 自殺しろってことだろsk(正気で考えても) 2:治験に参加する。 実は10月末でファイザーの治験参加者募集は締め切られている。 新聞の折込チラシでのみ告知。サイトには何の情報もないあたり鬼か、と思う。 しかし、間に合っていてもリスクの方が高いので参加しなかったろう。 検索してみると、同じように考える人が多く(医師も普通はオススメしないし)応募者は少ないのでは…と思ったりもする。 3:個人輸入で薬を入手。 どうせ保険が効かないなら現在治験中の薬を直に取り寄せてしまおう、という。 来年からはこの方法に切り替えることになりそうだ。 苦情を出しても、組織の審査が突如グリーンになったりはしないだろうから。 病状がある程度のところで安定してきたと思ったらこれである。 保険制度で助けられている以上、政治とは無縁で居られないということなのか。 今やってる治験が通って保険内に入るのは何十年先の話なんだろうな… 日本に税金払いたくなくなるよね。 自PC間ではシナジーを形成しない。
一つの卓で多くのPCを扱う場合、可能な限りそうしている。
何故なら、それを設定したところで別のPCと出会うことはまず無いからだ。 その設定を生かそうとするとGMは採用していないはずのPCを登場させねばならず、さらに下手をするとPLから「こいつはそんなこと言わない」とか「俺がやる」とか言われるのだ。 そんな無駄な苦労を掛けるのなら、別のPLのPCに向かってアクションを起こし関係を築いていく方がやりがいがあるし、なによりシナリオが先に進みやすくなる。 そう、一人芝居は物語を停滞させるのだ。 例外は「前のPCが死んで、そのポジションに別のPCが欲しい」時くらいか。双子の弟とか。 環境破壊と人類オワタ説。
時々「人類が死滅すれば地球は良くなる」的な自殺的環境保護論が見受けられる。
だが、はっきり言ってそんなもの、無駄に死にたがっているだけだろう。 何の為に環境を保全しなければいけないのか。 絶滅危惧種を生き残らせるためでも、神聖な地球を守るためでもない。 環境が激変すると、人類にとって都合が悪いからだ。 「人類が死滅したら」環境が改善されました、では意味が無い。 それは病気を治すために患者を殺すような行為で、要するに安楽死でしかない。 環境問題をどうにかする為に必要なのは、人類が死ぬことではなく、技術が進歩することだ。 地球の自然回復力だけに任せて待つには、我々の寿命は短すぎる。 時間は全てを解決するのかもしれないが、解決される前に当事者は死に絶えてしまう。 温暖化対策などが途上国に負担が大きいのは、使用できる技術が「安くて古い」ものであることにつきる。 要するに「環境問題」なんてリスクが眼中に無かった時代の技術を使っているのだ。 技術というものは未来に不安材料を残しながら進むものだ。 石油石炭に頼る以上は二酸化炭素が、原子力なら放射性物質が、といった具合に。 しかし、石油なしに文明の発達は無かったし、人類の拡大もなかったろう。 必要悪というか、誰だって先祖の尻拭いを多少なりとしなければいけない、という事なのかもしれない。 さて、環境対策済みの技術は高価だ。 環境問題は多大に経済問題を含んでいる。 たとえばその手の技術の特許使用料を先進国が吸い取らないだけで随分ハードルは低くなるだろう。 単に特許使用料を徴収しない、では技術が発展しないので先進国が途上国の分も払うような形になる。 排出量の買取では目標値以下になることは無いが、技術供与ならより確実なのではないだろうか。 ただ、エコな車に乗り換えるより、今の非エコな車が壊れて走れなくなるまで乗り潰した方がおそらく環境負荷は小さい。 エコカー減税は自動車会社保護と「エコカー当たり前」に移行するための前置き策でしかない。 個人的には人間の最大のエコ技術は「既に居る生き物を改良し飼いならす術」だと思っている。 もちろん馬では車ほど量産はできないが、最大限エコだ。 二酸化炭素についてならプロフェッショナルな植物達に任せればいい。 コンクリートやアスファルトの上に植物が生えることが可能な薄い土壌をパネルとして張るような技術は、実際開発されている。 砂漠化を食い止め、緑化を進めるような技術ももちろんある。 まあそれだって「砂漠という環境の人為的破壊」なんだけれど。 砂漠の生き物は様変わりするだろうねえ。 誰だって昨日までの景色を破壊して明日への道を作って進んでいくのだ。 何も変わらない、なんてことはありえないのだから。 職業的議論者の不健全性。
職業的政治家が果たして必要なのだろうか、といつも思っている。
彼らは民主主義の経典に従うならば、普通の人たちの代表のはずなのだ。 その時々その議論次第に抽出される「数多ある意見のうち一個の代表」であるはずの身分が、なぜ「代表であり続けようとする」必要があるのかが、まったく理解に苦しむ。 その地位、「政治家」とは理想気体ならぬ「理想意見」の入れ物に過ぎない。 本来的な意味では、どのような名前血縁出身の人物であろうと、掲げた一意見を代表すると人々に任じられ自身が理想に対して誠実に振舞う限りにおいては、誰であろうと就くことのできる役職であるはずである。 代表した意見の論議を全うすれば、彼なり彼女なりの仕事は終わったのではないのか? 次に代表すべき意見を捜し求めて、それで飯を喰って何に為るのだ?それはお前が「本当に肌身で感じた不条理」なのか?議論の種さえあれば何でも良いと内心思っているだけの特権享受者にそれを本当に「議論する」ことなど出来るのか? 勘違いしないで欲しいのだけれど、不条理を目にした者がそれを正そうと人々の後援を求め議論の場に乗り出そう志すこと、それ自体に違和感を持っているわけではない。 ただ、彼なり彼女なりが「その不条理」に関して十二分な議論を行い関連法整備が終わった後も議会に留まり、「経験を生かして」などとさらに「次の正すべき不条理はどこだ?」と政治を「職業」にしてしまう者たちに不気味さを感じるということだ。 その地位を子々孫々に受け継がそうとさえ考えたりもする。 それは「誰でもいつでもなれる代表者」の考え方ではない。継承され統治する王家の人間の思考だ。 王家は「決定の最終責任を取り革命される」ことでなんとかその存在の意義を示すが、民主主義に革命はない。最終責任は国民自身に帰結するのだから。 継承され、統治し、革命されない。責任追及のウロボロス、議論の永久機関…それが職業的「政治家」である。 いや、彼らの苦労は買おう。 もしかしたら彼ら「政治家」たちは数十年に渡って人に理解を求め政策を模索し、必死になって世間を変えようと奮闘しているのかもしれない。 代表したはずの意見が報われず、長く戦い続けている者もあるだろう。 それに見合った報酬が必要なのも理解しよう。 がしかし、初志を貫徹したがゆえに結果的に得られた報酬と、「報酬のために」だらだらと考えてもいない職業的義務的に議論を生産することには雲泥の差がある。 職業的義務的にただ漫然と生産される米なら無価値ではない。それは人を生かす。が、「議論」はそうはいかない。決定と行動無き議論はタダの言葉遊びだ。 結局、議論し続けることで喰っていけるのは職業的「政治家」だけなのだ。 議論を生業とするものは、議論を終結させることではなく引き伸ばすことが自分の利益だと遠からず気がつくのである。世間の暮らしぶりを変えようとしていたものはボードゲームの政局を遊ぶだけのプレイヤーになる。長考こそが尊ばれ、思考は堂々巡りするばかり。 なんでもない市井の一親父がある日ひょいっと会議場で、国のトップに向かって思いのたけを述べることができる立場。 それこそが理想の「政治家」である。 (声を上げさえすれば良い、という意味ではネット上と似通っていなくもない。ただ、ここでは安全のため仮面を被らなければならず、あまりに広大に過ぎる) ギリシアの広場のような開かれた議会をこそ望む。 架空の二人称。
誰であれ皆「自分を受け入れてくれる想像上の誰か」を目標に行動している。
それは家族かもしれないし、友達かもしれないし、恋人かもしれない。 誰かに認められたい、という動機はつねにある程度の力を持って行動を律する。 ただ、その「自分を受け入れてくれている誰か」という想像と現実の相手との間にある相違が落胆や驚きや苦しみを呼ぶことも確かだ。 力というものは、常に諸刃である。それが架空のものであれ。 いや、むしろ心に作用する分効果は大きいかもしれない。 人間にとって「人に好かれたい」と考えることが最大の弱点で、かつ最大の動機だ。 他人への影響を考えることで、初めて周りと協調したり反目したりできるのだから。 自分が何に期待しているか自覚することでそのリスクは低くなるものの、その分喜びを半減させることでもある。 心の中に誰を住まわせても構わないけれど、誰が居るのか位は知っておきたいな。 |
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